アメリカ人よりもアメリカらしい洋服をつくる日本人デザイナー。トレンドなど意に介さず、アゲインストをものともせず、既成の概念を打ち破り、新たに築いた価値観と創造性に富んだコレクションで世界を驚かせたその男の感性はどのように育まれたのか。
1962年、青森県弘前市(※01)。弘前藩の城下町として発展したリンゴと桜の街で鈴木大器は産まれた。津軽地方の中心都市でありながら、豊かな自然にも恵まれた地で少年時代を過ごす。「近所の仲間で集まって野球をしたり、地蜘蛛とか蝉の採集をしたり、ザリガニ釣りをしたり。ゲームなんてない時代だったから、基本的に外で遊んでいました。あと、弘前には、ねぷた祭り(※02)っていうお祭りがあって、毎年すごく楽しみにしていましたね」
現在の鈴木からは想像し難いが、かなり小柄な少年だったそう。中学校1年生のときの身長が137.9cm。整列の際は、長らく最前が定位置だった。その頃の自分を“もつけ”だったと鈴木はいう。“もつけ”とは津軽弁でお調子ものを差す言葉だ。好奇心旺盛でアクティブな少年時代。彼を魅了したのは自転車だった。
「小学生のときに自転車に乗るようになって、急に行動範囲が広がって。娯楽としてサイクリングが流行っていたんです。最初は友達と連れ立って、電気飾りがついたトラック野郎みたいな自転車で20kmくらいの遠出をして。だんだん車体にも凝るようになると本格的なものが欲しくなって改造が始まる。それで自転車屋に通うようになって、そこのオヤジさんと仲良くなって。そのうち『パンク直すの手伝ってくれ』なんて言われるように。手伝いをするようになると今度は『休みになったら働けば』って感じでバイトすることになっていました。色々教わって、しばらくするとバラバラの状態で納品された自転車を組みあげられるようになっていましたね」
春、夏、冬の長期休みになると、その多くを自転車屋でのアルバイトにあてたという。
「自転車屋でバイトしていると、パーツを少し安く買わせてもらえたり、プロ用の工具を使わせてもらえたりするからどんどん改造できたんです。本当に楽しかった」
興味のあることはとことん突き詰めるという鈴木の気質は少年時代から変わらないようだ。自転車への熱中ぶりがうかがえるエピソードはまだある。
「その頃の目標は競輪選手。弘前は雪深いから、冬の間は自転車に乗れないんだけど、ローラー台っていう室内練習用の器具を通販で買って玄関で練習していました。バイト先の自転車屋にスポンサーになってもらって、地元のロードレースにも出ました。進学先も自転車競技部がある高校に行きたかったんだけど、どうしても父親が許してくれなくて、結局地元の進学校に行きました」
自転車に熱狂していた中学生時代、鈴木を強烈に惹き付けたものがもう1つある。それが雑誌だ。1975年『Made in U.S.A catalog』、翌76年『POPEYE』が創刊。誌面を通してアメリカンカルチャーやファッションへの関心が一気に高まっていた。
「あの頃はやっぱり本屋が一番の情報の宝庫。だから、お店の人のハタキに怯えながらもよく立ち読みをしていましたね。最初に読んだのは『SCREEN』や『ロードショー』といった映画雑誌、それと『MEN'S CLUB』。中学2年生くらいのときに『Made in U.S.A catalog』や、『POPEYE』に出会いました。特に『POPEYE』には夢中になりましたね。10日と25日が発売日だったと思うんですが、駅の中の売店ではその前日に売っていて、毎号欠かさず買いに行ってました。次の発売日まで2週間くらいあるのですが、その間に、表紙から裏表紙まで全部に目を通しました。何度も何度もボロボロになるまで読んでいましたね」
地元の高校に進学した鈴木は山岳部に入部。夢中になって読んだ『Made in U.S.A catalog』や『POPEYE』の影響だ。
「アウトドアファッションに興味があって、部活でそれを活かすなら山岳部だろうと。〈SIERRA DESIGNS〉のパーカを着て、〈JANSPORT〉のバックパックを背負って山に行くんだろうなって想像していました。そうしたら高校の山岳部ってすごくレギュレーションが厳しくて、指定のものしか身につけられない。キスリングっていって、ブラウンダックの大きくて重たいリュックサックを背負わされて。しかも部活に代々伝わる汚いやつ。まるで戦争から戻った復員兵みたいな風貌になってしまう。自分が抱いていたイメージとはかけ離れた山登りでした(笑)」
理想と現実のギャップにつまづいた鈴木は山岳部を正式に退部はしなかったものの、すぐに幽霊部員に。その後は友人の勧誘でハンドボール部(※03)に入部。部活動に打込みながらも、ファッションにのめり込んでいく。
最初は〈VAN〉を買ったかな。あとは、〈VOX〉や〈McGREGOR〉、〈J.PRESS〉〈HANG TEN〉、〈WAY-OUT〉〈GQ〉〈HARVARD〉といったトラッド系のブランドをたくさん買いましたね。弘前の下土手町にある『VAN SHOP シミズ』っていう店で。中学生の頃から行っていたんですが、高校に入ってからはバイト代をやりくりしてよりいろいろと買っていました。そのうち、洋服や音楽の話が合う仲間が4人集まって、一緒に買い物に行ったりしていたんですが、だんだん競争みたいになってきて。誰が最初に〈LEE〉の“200”番をはいた、誰が“スタンスミス”を買った、〈TOP-SIDER〉を履いたって。それで、田舎のルールとしては、誰かが買ったら他の人は買えない。カブっちゃいけないんです(笑)。だからみんな次々に新しい物を探すようになっていきました」
誰が先に手に入れるか。そのバトルは次第にエスカレート。地元のショップを探すだけでなく、東京からの通信販売も試みる。が、しかし少し悲しい体験も。
「『BEAMS』から通信販売で〈IZOD LACOSTE〉を買いました。オーダーするためにお店に電話をかけるんだけど、話している最中に切られちゃう。最初はどうしてなのか理解できなかったんだけど、どうやら津軽弁訛りのせいで言葉が通じなかったみたい(笑)。あと、八王子の『BULL』に引っ込み星の〈CONVERSE〉が売ってるって聞い時も速攻で電話したんだけど、この時も電話を切られてしまった。そちらは結局手に入らず。すごくショックだった(※04)」
〈VAN〉を中心としたアイビースタイルのブランドや、アメリカンカジュアルのインポートブランドを競うように手に入れた彼らが次に狙いを定めたのが、当時、人気が高まりつつあったデザイナーズブランドだった。
「ある時、誰かが〈MEN'S BIGI〉を買ってきて。そこからまた始まっちゃったんです。じゃあ俺は〈GLASS MEN'S〉、それなら俺は〈MELROSE〉っていう具合に。それで僕がたまたまその頃にメンズを始めたばかりの〈COMME des GARÇONS〉だった。高校1年生の時は〈VAN〉とかアメリカンインポートブランドだったけど、2年目には完璧にDCブランド一辺倒でしたね。当時は雑誌もインポート系とDC系にはっきり分かれていて、例えば『POPEYE』にはDCブランドが出てこない。だから『男子専科』や『CHECKMATE』なども読んでいました」
ファッションの仕事に就きたい。この頃、漠然とではあるが、そんな気持ちが鈴木の中に芽生えていた。
「洋服の仕事に就きたいと思っていたんだけど、東京にはお洒落な人がたくさんいて、自分みたいな田舎者には勝ち目がないと思っていた。だから、まっとうに大学に行って、いい仕事を見つけて、趣味で洋服を楽しむのがいいのかなって。自分の中でそう結論を出していました」
1980年、埼玉の大学へ進学。東京に近くて、いつでも行けるようにとの考えだったが、なかなかどうして、都会とはほど遠い田舎街に住むことに。
「想像していた大学生活とかけ離れていました。お洒落な人なんていないし、地元の方がよっぽどカッコイイじゃんって思った。それで、青森から東京に出ていていた友達と遊ぶことが多くなっていったのですが、専門学校に通っていた彼らが洋服の話をしているのがうらやましかった。結局、半年で大学を辞めてしまいました」
入学から半年で退学。両親に相談もせず、独断だった。ゆえにその後の生活費は自分で稼ぐことに。
「服飾専門学校のバンタンに入学することにしたんですが、その入学金や授業料、あと生活費はアルバイトで貯めました。メインは凸版印刷の夜勤。一晩で8,900円稼げました。夕方の6時に出勤して、翌朝の6時まで仕事。家に帰ったら、次の出勤に備えてすぐ寝る。そんな暮らしをしていたら遊ぶ時間も無いから、知らないうちにどんどんお金が貯まって。その貯金で翌年バンタンに入学しました(※05)」
バンタンではデザイン学科を専攻。デザインやパターンなど洋服作りについて学ぶ。鈴木は「デザインの勉強になったとは言い難い2年だったけど、そこで一緒に過ごした仲間達との出会いはかけがえのないものになった」という。この頃の鈴木は、ブラックを基調にしたモードなスタイルだった。デザイナーズブランドで全身を包んでいたそうだ。
「青森でデザイナーズブランドのセレクトショップを経営していた知人が、展示会回りで上京したときにいろいろと一緒に連れて行ってくれて。そうしたら、展示会に行ったDCブランドからファミリーセールの招待状が届くようになったんです。当時のファミリーセールはとにかく安くて、例えばシャツもパンツも2,000円とか。半年に1度、向こう半年分の洋服は全部そのセールで揃えていました」
専門学校在学中に卒業後の就職先が内定。残りわずかになった学生生活をより有意義に過ごすべく、それまで生活費捻出のために働いていた缶詰工場、電子部品の洗浄工場を離れ、洋服屋でのアルバイトを探す。
「卒業する半年くらい前かな。仲間が『ファッション業界に就職するなら、やっぱり洋服屋でバイトしようぜ』と言い出して。彼は『BEAMS』のアルバイトスタッフになりました。それで「俺も受ける!」ということで、『BEAMS』に履歴書を持って行ったのですがその場で断られて(笑)。募集はしていたんですけど。あれはショックでしたね。それで、その近所の『ユニオンスクエア』(※06)が運営していた店に面接に行ったら採用されて。そこで清水さん(※07)に出会いました」
就職までの期間を「ユニオンスクエア」社で過ごし、デザイナーズブランドに入社。しかし、半年で辞めてしまう。その後もDCブランドに働き口を求めるもなかなか仕事を得られなかった。
「そんな状況で清水さんに相談に行ったら『戻ってくればいいじゃん』っていってくれて。それでまた『ユニオンスクエア』でアルバイトをすることに。でも、前回のアルバイトの際に担当していた『Namsb』にはスタッフが足りていたので、清水さんが立ち上げた『RED WOOD』(※08)で働くことになったんです。しばらくしてDCブランドでの働き口が見つかって、いよいよアルバイトを辞めて就職しようとした頃、清水さんに『いれば?』って言われたんです。思いがけない言葉に僕は『えっ?』っと戸惑ったんですが、『俺がなんとかするから。そっちに行くよりも良くなるから』って清水さんに断言されて。たぶん何の根拠もなかったし、意味もよく理解できなかったけど、じゃあ、そうしようかなって(笑)」
デザイナーになるという目標を持っていた鈴木は、いつしかショップでの仕事にやり甲斐と魅力を感じていた。そして清水の元に留まった。この先どんな道に進もうとも「RED WOOD」での体験が糧になる。そう確信できるほどに充実した毎日を過ごしていたからだ。
「その頃はデザイナーになりたくて、DCにかなり傾倒していたんだけど、『RED WOOD』って店を清水さんと一緒にやっているうちに、アメリカ物の洋服の奥深さみたいなものを痛烈に感じていました。それまでに知らなかったことがどんどん自分に吸収されていく感覚がすごく楽しかった。それで、いつかDCブランドのデザイナーになるとしても、アメリカもの魅力を知り尽くしてからの方がいいんじゃないかって考えるようになっていたんです。そしてその後、ショップを作り上げて、運営していく仕事がどんどん楽しくなって。デザイナーよりも洋服屋になりたい、と徐々に気持ちが変わっていったんです。清水さんの誘いもあったし、その後、『ユニオンスクエア』の社長からも『社員にならないか?』と話をもらったので、就職することにしました」
「大事なことはすべて店で学んだ」と鈴木はいう。この言葉の根底にあるのは『RED WOOD』で過ごした日々だ。
「洋服が好きだったら、大量の洋服があってそれに触れる、着られるという状況は、これ以上ないくらいに楽しいですよ。お客さんとのコミュニケーションも魅力。本当にいろいろな人がいて、普通なら絶対に出会わないような人とも話せる。世間で活躍していた人も来ていたし。自分で蓄えている知識を使えるのも楽しい。どうやって魅力を言葉にして伝えたらいいか、どんなスタイリングでディスプレイしたらいいか、どんなタイミングで声をかけたらいいか、誰も教えてくれないから、何度も考えて何度も試して、自分なりの方法を身につけていきました。自分たちが今、カッコイイと思っていることを表現した空間に、それに賛同してくれる人が来てくれる。それがすごく嬉しかった」
ショップスタッフの仕事に鈴木はのめり込んだ。そして5年を過ごす。清水さんが「ネペンテス」を立ち上げるために会社を離れたあとは「RED WOOD」の店長も務めた。
退社を決めたきっかけは一通のはがきだった。鈴木が26歳の時。
「『RED WOOD』にいた頃、海外での買い付けから戻ってきた清水さんを質問攻めにして、アメリカの話をよく聞いていました。それで行ったこともないのに、行った気分になっていたんです。それで、お客さんにはニューヨークでは今、こんなことが起きていて……、といった話をしてしまっていた(笑)。そうしたら、店に来ていた高校生がアメリカに留学することになって、向こうからはがきを送って来てくれて。すごく嬉しかったんだけど、内容が『こっちは大器さんから聞いていた通りでした! 大器さんが話してくれた〈SERO〉のシャツ、めちゃくちゃカッコいいです!』みたいな感じで。それを見た時、『俺、アメリカに行かなくちゃダメだ』って思って。そのあとすぐに店を辞めることを決意しました」
長期の旅をするために会社を辞めることにした。退社後はすぐにアメリカへ。3週間の旅に出る。
「サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークの3ヶ所にそれそれ一週間ずつ滞在しました。カリフォルニアはすごくいい所でしたね。いつかサンフランシスコに住みたい、そう思えるほどでした。で、ニューヨークはすごく怖かったですね(※09)。地元の先輩を頼って訪ねたんですが、ヘルズ・キッチンの47丁目、9thアベニュー辺りのすごく汚いアパートに住んでいて。『そこで寝ていいよ』って言われたソファも、ものすごく汚い(笑)。それでもそこに泊めてもらったんですが、夜中の12時くらいに『ビール買ってこい』って言われて、外に放りだされたりして。別の日は『ドアマン顔がきくから』って言われて、アベニューBの2丁目くらいにあった『Robot』ってクラブに連れて行かれたんだけど、30分くらいしたらその案内役の先輩がいなくなっちゃって。勝手がわからないからそのまま居たんですが、しばらく居たら飽きる。それで、冷静になって周りを見たら悪そうなヤツばっかり(笑)。でも夜中だし外に出ても帰れないから、なんとか明るくなるまで粘ろうと。最も安全に過ごす方法を考えた結果、フロアの真ん中で踊り続けるのが最善ってことになって。結局、朝までずっと踊っていました(笑)」
その後、知人の誘いで、「BRUTUS」や「POPEYE」「MEN'S CLUB」などで、スタイリストやライターの仕事をするも長くは続かなかった。初めての海外旅行で強烈な洗礼を受けたその約1年後、清水が創立した「ネペンテス」のバイヤーとして、再度アメリカに渡ったからだ。
「当時取引のあった靴の工場がメイン州にあって、そこから一番近い都市ということで、ボストンに行きました。最初はB-1/B-2ビザを取得して、6ヶ月滞在することに。とりあえず靴を確認して日本に送るという仕事があって、それ以外は住む所もなにも決めずに出発しました。あとは全部手探りで。実際、どうやって見つけたのか忘れましたが、ケンブリッジのカーク・ストリートに長期滞在型のアパートを借りました。孤独だし、テレビもナシ、電話もナシ。夜になると気が滅入っていましたね。空が明るくなるとまた希望が湧いてきて、外に出ようって気になるんだけど。そんな暮らしをしていました」
ボストンと日本を往復する暮らしをを1年半続けた後、生活の場をニューヨークへと移す。ボストンではシューズブランドとの取引、アウトレットや郊外のサープラスショップでの買い付けがメインだったが、この頃になると、展示会やショールームを回って新しいブランドの発掘に力を入れるように。
「ボストンにいた時は、イエローページでサープラスショップや洋服屋を回って良いものがあれば買い付ける。嗅覚と行動力勝負のバイイングだったのですが、ニューヨークに移ってから(※10)は、新しいブランドの買い付けや別注の交渉などが多くなりました。〈TOD'S〉を日本に紹介したのもその頃ですね。ワークウエアやヘヴィデューティブランドの買い付けはほかのインポートショップもやっていたし、少し違う提案もしてみたい。それではじめたのがアメリカの若手デザイナーズブランドの買い付け。経験と知識に裏打ちされた洋服もいいけれど、見た瞬間にカッコいいと思う洋服もいいじゃないかって思ったんです。『ネペンテス』としては割と新しい価値観で、ほかの誰も手をつけていない分野でした」
老舗ブランドへの別注アイテムと新鋭ブランドのバイイング。「ネペンテス」独自の方向性が定まりつつあった。しかしすべてが順風満帆というわけでもなかった。
「ブランド選びやオーダーするボリュームなど、バイイングに関して一任されていたんですが、感情で動くタイプなので『これはいい!』って思うと突っ走ってしまう所があって。自分が買い付けて日本に送った物は全部売り切れているものだと思っていたんです。清水さんから『お前が買ったあれ、こんなに残ってるよ』って話を聞くまでは。良い物を選んでいる自信はあったけど、オーダーの量などはアバウトでしたね。遠回りして失敗を重ねて少しずつ覚えていきました」
ボストンからニューヨークに移りしばらくすると、1994年には拠点をサンフランシスコに移す。取引していた主要なブランドのうち、〈MMSW WORKWEAR〉と〈THINK TANK〉の2つがサンフランシスコを拠点にしていたこと、鈴木自身が結婚と妻の出産を機に、西海岸での暮らしを求めていたことなど、いくつかの理由が重なったからだ。新たにオフィスを構え、〈1 BY 2〉というブランドとの共同運営で小さなショップも開いた。そして新しい環境での生活が4年程経った頃、ニューヨークの友人から連絡を受ける。
「友達のケヴィンから『ウチの下が空いていて店に丁度いいんだ。お前やらないか』って話をもらって、それを清水さんに相談したら『店、良いんじゃない』って言われて。当時、ニューヨークは家賃が安かったから、オフィス兼ショップならなんとかなりそうかなって思ったんです」
そして1998年、ソーホーのサリバンストリートにオープンしたのが『ネペンテス ニューヨーク』。シューズをはじめとする別注アイテムや新鋭アメリカンブランドに加え、日本で清水が立ち上げた〈NEEDLES〉、鈴木がデザインした〈NEPENTHES NEW YORK〉、〈ENGINEERED GARMENTS〉などがラインナップした。
「ショップのオープンに合わせてオリジナルブランドがあるといいなと考えていた時、ずっと買い付けていたブランドのデザイナー、トッド・キリアンから、『シャツの工場が潰れそうなんだけど、なにか仕事無いかな?』って連絡をもらって。それでオリジナルのボタンダウンシャツを作りました。それが後の〈ENGINEERED GARMENTS〉の“19th BD Shirt”(※11)の原型なんですが、その時は〈NEPENTHES NEW YORK〉レーベルでリリースしました。ちょうどその頃、日本で販売するためのアメリカ製のパンツが少なくなっていて。Mede in U.S.A.のパンツレーベルとして、〈ENGINEERED GARMENTS〉がスタートしていました」
「ネペンテス ニューヨーク」は3年でクローズ。当時のニューヨークにカジュアルなスタイルの提案はミスマッチだった。しかしショップのオープンをきっかけに鈴木の洋服作りは本格化していく。ニューヨークを中心に、アメリカ国内生産が可能な工場を次々に見つけ、〈ENGINEERED GARMENTS〉はパンツ以外のアイテムも充実させていった。そして2002年、初めてフルコレクションを発表。日本で単独の展示会を開催。手応えを感じた鈴木はブランドを次のフェーズへと移行させる。
「清水さんと相談して、海外のトレードショーに出展しようということになりました。それで、どこに行くかって話になって、イタリアのピッティ・ウォモがいいんじゃないかってことに。バイイングで何度も行っていたんですが、どちらかといえばドレス系の展示会。そこでカジュアルな服を提案したら面白いかなと思ったんです。ただ、その時はスケジュール的にピッティには間に合わなかったので、まずはニューヨークで開催されるデザイナーズ・コレクティヴに出展することになりました。その時に、アメリカのマーケットに仕掛ける方法を2通り考えました。一番アメリカっぽくないことをやるか、それとも、一番アメリカっぽくやるか。最終的に、一番アメリカっぽいのをやろうということになりました。タイミング的には、尖った靴、細くて薄くて、軽い、柔らかいっていうファッションが主流だったから、僕は、重くて硬い、そういうアメリカ的なものを作りたいという気分でした。例えばキャンバスは14オンス、ウールは24〜30オンスでとにかく分厚い。今見ると『着れないな』って思うくらい(笑)。縫製工場はすごく迷惑だったと思います」
1980年代にスタートしたデザイナーズ・コレクティヴは、日本人バイヤーたちにとって、特別なトレードショーだったそうだ。出展にあたっては当時、ニューヨークオフィスに勤務していた青柳徳郎(現ネペンテス クリエイティブ・ディレクター)の提案で、その後恒例となるルックブック形式のヴィジュアルも制作された。
「昔からバイヤーとして追いかけてきたショーだから、思い入れが強かった。〈吉田カバン〉が初めて海外に出たのもデザイナーズ・コレクティヴ。ピッティの前にやるんだったら、そこに出たいなと思っていました。その頃、ニューヨークで注目されていたショーやプロジェクトは他に色々あったんだけど、そこには出たら埋もれてしまうかも、という思いもありましたね。あえて眠たくなるようなメーカーが並ぶ所に出ることで目立つかもって(笑)。それでショーが始まったのですが、当然というかやっぱり誰も来ない。少し不安にもなったけど、しばらくすると、僕がバイイングしていたブランドのデザイナーのジョン・バートレットが自分が出展しているブースを離れて見に来てくれたんです。そうしたらすごく気に入ってくれて、『これはいいね! 誰か連れてくる』って言って、最初に連れてきてくれたのが『Bloomingdale’s』(※12)のバイヤー。それがきっかけで7アイテムくらいオーダーしてもらいました。〈Woolrich Woolen Mills〉(※13)のオファーは、そのコレクションが『Bloomingdale’s』に並んでいるのを見たのがきっかけだったそうです」
翌年には当初の予定通り、ピッティ・ウォモに出展。
「たまたま通りかかった〈PAUL SMITH〉のブースのスタッフが洋服を見てすごく気に入ってくれて、自分達の取引先のバイヤーをどんどん紹介してくれたんです。ものすごく狭いブースで出展していたのですが、たくさんの人が来てくれて嬉しかったです。展示会への出展は、地道な作業の連続なんですが、どんどん友達の輪が広がって、それがビジネスつながって、本当に楽しかったですね。いいものを作れば、ちゃんと伝わる。政治力やコネクションが無くても、評価してくれる人もいるんだということを目の当たりにして希望が湧きました」
その後もピッティ・ウォモ、デザイナーズ・コレクティブに出展。シーズンを追うごとに、評価を高め、取引先を増やしていった〈ENGINEERED GARMENTS〉。古き良き時代のアメリカンスタイルやmade in U.S.A.のプロダクトが改めて見直され、ファッションシーンの表舞台で脚光を浴びるようになったのは、〈ENGINEERED GARMENTS〉の存在、そして無謀とも思えるほどの果敢なチャレンジなくしてはあり得なかっただろう。その後のジャパニーズブランドのピッティ・ウォモ進出にも多大な影響を及ぼした。その功績はアメリカでも高く評価され、2008年には米ファッションデザイナー協議会と雑誌『GQ』が主催した“GQ/CFDAメンズ新人デザイナー賞”(※14)の最優秀賞を受賞。それからの活躍は言うに及ばず。周知の通りだ。
2010年。再びニューヨークにショップを構える。屋号は12年前と同じ「ネペンテス ニューヨーク」。
「今はデザイナーの仕事がメインだけど、昔からずっと、自分は“洋服屋”という意識があるんです。それは清水さんも一緒だと思う。これまでにやってきたことは、いつも必ず自分たち の店の存在があってのこと。アメリカにショップを構えるというのは、「ネペンテス」に参画した時から実現させたかったことでした。1度ソーホーでうまくいかなかったワケだけど、場所と内容、それとタイミングが揃ったら、またいつでもやりたいと考えていました。新しいオフィスに移転した時、1階に空いているスペースがあって、毎日、会社に行く度にそこを見て『いい空間だな』って思っていたんです。場所はミッドタウンのガーメント・ディストリクトと呼ばれる、洋服の問屋や工場が立ち並ぶエリア。ショップがあるようなエリアではないし、集客も期待できない。リアリティが無いとは思っていたけど、いつからか、逆にここでこそショップをオープンしたら面白いかもって思うようになったんです」
展示会で渡米した清水にそのスペースを見せたところ好感触。すぐに「やろうよ!」と賛同してくれた。街のムードやトレンドとのミスマッチで苦渋をなめた、ニューヨーク出店のリベンジ。しかし、その経験を活かしてニューヨークに歩み寄ろうとはしない。どこまでも自分たちの嗅覚を信じてスタンスを貫く。それが鈴木の、清水の、そして「ネペンテス」のスタイルなのだ。2009年の12月に契約すると、内装にもじっくりと時間をかけて、翌2010年の9月にオープン。そして今年で5周年を迎える。
「ここまで順調にきたけれど、それは〈ENGINEERED GARMENTS〉をはじめとする取り扱いブランドの知名度が、ソーホーのお店の時よりも高いから。店としてはまだまだここからが勝負だと思っています」
2013年の7月には、それまで10年続けたピッティ・ウォモでのコレクション発表に区切りをつけ、ショップを会場にランウェイショーを開催。また、気鋭のブランドのポップアップショップ、写真やアート作品を展示するエキシビションを開催するなど、活動も精力的だ。
「その時々の気分を常に発信し続けるために、イベントやパーティーは重要。待っているだけでは人が来ないエリアにショップがあるので、定期的にお店に足を運んでもらうためのきっかけづくりにもなるといいなと思っています。ランウェイショーに関しては、ピッティの雰囲気が変わってきていたし、これ以上続けてルーティン化すると新鮮味がなくなってしまうかなと思って参加を辞めたのですが、じゃあ次は何をしようかって考えた時に思いつきました。実は、その前のシーズンに雑誌の企画でショーやらないかって誘いがあったんです。8ブランドくらいを同じ箱で見せるというイベント。結構真剣に考えましたが、みんなと同じ空間でショーをやってもウチっぽさが無いかなと思って断ったんです。それで、一番自分たちらしい表現って何だろうと考えたのが、ショップを舞台にしてショーを見せるってことだったんです。実験的な試みだったので、ショーは1シーズン限り。その後は映像を作ってみたり、雑誌をつくってみたり、いろいろと新しいことにチャレンジしています」
2015年3月に発行された『THE GARMENT DISTRICT JOURNAL』は、ファッションの情報はもちろん、NYのアートや出版、音楽などを取り上げたカルチャーマガジン。鈴木が編集長を務めた。
「雑誌も1冊限りの予定だったんですが、現在2号目を制作中。ニューヨークのファッションウィーク中にお披露目する予定です」
デザイナーとして“洋服屋”として、尽きることない刺激的なアイデアで、常にフレッシュなクリエーションを発信し続ける鈴木。“熱しやすく、冷めやすい”と自身を分析するが、そのモチベーションはどのように維持しているのだろうか。
「〈ENGINEERED GARMENTS〉をスタートした頃は、ジャケットやパンツは黒くて、ピタピタで、靴は先が尖っているものが売れていました。そんな状況に不満をもっていることを友人たちに話したんですが、誰も相手にしてくれませんでした。アメリカ製の商材が見つけづらくなっていたこと、世の中に欲しいと思える好きな洋服がなかったというのが重なった。それなら自分で作るしかないっと思ってブランドを立ち上げたんです。長い間、それをモチベーションに服作りをしてきました。だけど、最近は、アメリカ製の洋服もあるし、なかなかいいなって思う洋服もたくさん出てきた。だからモチベーションは別の理由で高める必要があるんです」
クラシックテーラリングやスポーツ、ワークウエア、ミリタリーユニフォームなど、いつしか消えてしまった古き良き時代のアメリカ製品を紐解き、そのデザインを解体、再構築して新たなプロダクトを生み出す。それが〈ENGINEERED GARMENTS〉。同じようなコンセプトを掲げるブランドは確かに増えたが、その個性はいまだ唯一無二。偉大なヘリテージに着想を得たデザインも斬新なアレンジで誰も見たことがないアイテムにしてしまう。
「基本的には見てきたものの焼き直しなんだけど、デザインしている人間の考え方がひねくれてますから。自分の中にルールはあるけど、最終的には何でもアリ。ずっと変わっていないようでコロコロ変わっているんです。もうネタが尽きたって思うこともあるし、かつてのような情熱が消えかけて誰かに任せてしまいたいって思うこともあるけど、たくさんのスタッフと一緒に働いているし、そうもいかない(笑)。そんなことを考えているうちに、どこからかアイデアが閃いて怒濤のようにコレクションが出来上がっていくんです。もっと早くやろうって思うんだけど、いつもギリギリ。どうせ自分でやるなら好きなものを、納得いくクオリティで作りたい。総合的な品質でラグジュアリーブランドに及ばなくても、誰にも真似できない、誰にも負けない部分がどこかにある。そんな洋服をこれからも作り続けていきたいと思っています」
1962年、青森県弘前市生まれ。NEPENTHES AMERICA INC.代表「ENGINEERED GARMENTS」デザイナー。 1962年生まれ。89年渡米、ボストン-NY-サンフランシスコを経て、97年より再びNYにオフィスを構える。 09年CFDAベストニューメンズウェアデザイナー賞受賞。日本人初のCFDA正式メンバーとしてエントリーされている。